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伊東満所(マンショ)(いとうまんしょ)

伊東満所(マンショ)1

13歳で天正遺欧少年使節団としてローマへ渡り、日本と西欧の親善に大きな足跡を残した先師。

伊東満所(マンショ)2【天正遣欧少年使節】

●「伊東満所」について
・洗礼名:ドン・マンショ
●生涯
・永禄12年(1569年)頃:伊東氏の家臣・伊東祐青(いとうすけはる)の子。母は日向国主・伊東義祐(いとうよしすけ)の娘(通称「町の上」)。日向国主伊東義祐(いとうよしすけ)の孫として生まれました。
・天正5年(1577年)8歳:伊東氏が島津氏の攻撃を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、家臣の田中國廣に背負われ日向から豊後(大分)へ落ち延びました。このことは「伊東主従豊後落ち」といわれています。
・天正8年(1580年):有馬(現・長崎県南島原市)のイエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関(小神学校)のセミナリオに入校します。
・天正10年(1582年):13歳。セミナリオで学んでいた千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノと共に『天正遣欧少年使節』の正使としてローマに派遣されました。

伊東満所(マンショ)3

所在地 西都市大字荒武、鹿野田(都於郡城址)
駐車場 有/120台(大型10台)

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